出版

赤本マンガの発行部数はどれぐらいだったのか?

手塚治虫と酒井七馬の「新宝島」が大阪の育英出版から発売され、赤本マンガがブームとなったのが1947(昭和22)年。

「新宝島」は40万部を発行したという説もありますが、その他の赤本マンガの発行部数はどれぐらいだったのでしょうか。





赤本は、一般的な書籍や雑誌の流通ルートで世の中に出ることはなく、主に駄菓子屋や露店で売られていました。

出版元は、卸問屋も兼ねており、出版業をやったことのないおもちゃ屋が簡単に作った本、と思われていました。

大手出版社が出す漫画は高品質で書店で販売され、赤本マンガは紙も内容も粗いもの。

こういった固定観念を覆していったのが「新宝島」でした。

「新宝島」以後、多くの赤本マンガ版元が生まれます。

「ガロ」の青林堂で有名な長井勝一社長も、赤本マンガの出版社を作った一人です。

義兄が経営していた足立文庫という古本屋を、1948年(昭和23)に卸問屋と赤本マンガの版元にしたのです。

赤本マンガが儲かると知った長井勝一は、新聞の求人欄に「漫画家募集」と広告を打ちました。

今では信じられませんが、漫画家志望の人たちも、どうやったら漫画家になれるかを知らない時代でした。

マンガは出版社の社員が描いているもの、と思われていたのです。

一冊64ページでB6判、表紙は4色で本文は2色。

一冊の値段は50円~100円ぐらいだったようです。

発行部数は一冊につき30,000部刷っていたというのです。

1948年(昭和23)当時の国家公務員の初任給は4,000円程だったので、100円の本が30,000冊売れたら300万円です。

実際の卸価格は分かりませんが、5掛けで卸していても150万円入ってくるのです。

漫画家には、ランクによりますが10,000円も上げていません。

手塚治虫の「新宝島」の原稿料は3,000円だったといいます。

しかも、印税方式ではないので、重版して版を重ねても追加でお金はもらえないのです。

赤本マンガがいかにもうかったのか、お分かりいただけたと思います。

長井勝一さんは儲かったことにより遊びすぎて、結核を患って入院生活に入ってしまうのですが。

そして長井勝一さんが退院して商売に戻った1954年(昭和29)頃には、赤本マンガは3,000部ほどの発行部数になっていたとのことです。

赤本が衰退していくのと時を同じくして、貸本がブームとなっていくのです。

(参考:「廃墟の残響 戦後漫画の原像」桜井哲夫、NTT出版)

「貸本漫画の部数と貸本屋の軒数について」はこちらのブログに書きました。

ご参照ください。

貸本漫画の部数と貸本屋の軒数について平成、令和の時代ではすっかり姿を消してしまった貸本店。 最盛期の昭和30年代には、日本全国に30,000店もあったと言われています。 ...





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