トキワ荘の漫画家

赤塚不二夫「天才バカボン」がマガジンからサンデーに移籍した理由と当時の状況

「おそ松さん」が大ブレイクして再び脚光をあびている漫画家・赤塚不二夫さん。

2008年(平成20)に72歳で亡くなってから20年以上たった今も、漫画家として影響力を残しています。

赤塚不二夫さんの代表作はたくさんありますが、その中でも「天才バカボン」は5回もアニメ化した最も人気のある作品です。

そんな「天才バカボン」が掲載誌を移籍した事件がありました。

事件が起きた理由と、当時のマガジンとサンデーの状況を上原龍一が追っていきます。





赤塚不二夫「天才バカボン」がマガジンからサンデーに移籍した理由

“事件”と言われる「週刊少年マガジン」(講談社)から「週刊少年サンデー」(小学館)への移籍のきっかけは、スナックでの会話からはじまりました

新宿の「竹馬」という名前の、赤塚不二夫さんがよく呑んでいたスナックです。

その日は赤塚不二夫さんの他に、小学館の「おそ松くん」の六代目の担当編集者・武居俊樹さんと、赤塚さんのブレーン(アシスタント)の長谷邦夫さんと高井研一郎さん(代表作「総務部総務課山口六平太」)がいました。

会話は脈絡なくいろいろな方向に飛び、長谷邦夫さんが発した言葉が現実となりました。

「『バカボン』、マガジンから持ってきて、赤塚不二夫をサンデーの独占作家にしちゃえば」※

スナック・竹馬でのこの会話は、その時は細かい話にはならなかったようです。

翌日、武居俊樹さんがサンデーの編集長にこの案を告げ、話が動いていったのです。

小学館は、サンデーの創刊10周年企画として、赤塚不二夫さんが編集するページを、毎号80ページ用意したのです。

サンデーは赤塚不二夫さんにとって、ブレイクした作品「おそ松くん」の連載誌ということもあり、恩と愛着もあったのです。

赤塚不二夫さんは長谷邦夫さんと一緒に講談社に話をしに行きます。

移籍したい旨をマガジンの内田勝編集長に伝えると、あっさりと「結構です」と言ったといわれています。

編集者としての意地もあったのでしょう。

ただ、「天才バカボン」はマガジンの3本柱のうちの一作でした。

「あしのたジョー」と「巨人の星」、そして「天才バカボン」の3本だったのです。

ちなみに、「天才バカボン」は講談社漫画賞の受賞が決まっていたのですが、この移籍事件により話は流れてしまいました。

移籍した「天才バカボン」は、「もーれつア太郎」と一緒にサンデー誌面に載ることになりました。

1969年の35号から「天才バカボン」がサンデーに登場したのです。

しかし、「天才バカボン」と「もーれつア太郎」が同じ雑誌に載るということは相乗効果は見られませんでした。

「天才バカボン」はマガジンの連載マンガの中にあってこそ、生きたのです。

結局、「天才バカボン」はサンデーで30回掲載され、1970年(昭和45)に連載が終わったのでした。

しかし、サンデーの連載が終わっても、「天才バカボン」はまだ死にません。

テレビアニメ化の話が進んでいました。

これを手土産に、講談社の「ぼくらマガジン」で1971年(昭和46)から連載を開始しました。

同年に「ぼくらマガジン」が休刊となり、「天才バカボン」は「週刊少年マガジン」に戻ったのです。

マガジンとサンデーの当時の状況-部数についても

両誌は初めての週刊“少年”漫画雑誌として、同じ日に創刊しました。

1959年(昭和34)3月17日、火曜日です。

両誌は示し合わせて発売日を同じにしたのではありません。

はじめにサンデーが創刊を企画し、それ知った講談社がマガジンの発売を決めたのです。

両誌はともに大日本印刷という会社に印刷を依頼していました。

ですので、情報はお互いに筒抜け、という部分もあったのでしょう。

マガジン側が、サンデーより一日も早く発売したいと画策し、サンデーもマガジンより遅い発売日にはできない、と攻防があったのです。

サンデーは当初、5月に発売の予定でした。

それを知ったマガジン側が発売日を繰り上げてきたのです。

値段も同様です。

マガジンは40円だったのに対し、サンデーはマガジンの決定を知り、30円の定価にしたのです。

創刊号の発行部数は、サンデーが30万部、マガジンが20.5万部と、サンデーの圧勝でした。

同日に発売した両誌ですが、サンデーの方が創刊に向けてはやくに動き出していました。

つまり、人気のある作家を揃えることができたことにより、部数の差が出たのです。

両誌はそれからも部数競争をしていきました。

サンデーはその後も「おそ松くん」や藤子不二雄の「オバケのQ太郎」、横山光輝の「伊賀の影丸」という人気作品を擁し、1965年(昭和40)頃には、サンデー60万部、マガジン35万部という大差がついていました。

マガジンで上述の3本柱の「天才バカボン」と「あしたのジョー」の連載がマガジンで始まったのは1967年(昭和42)、「巨人の星」は前年の1966年(昭和41)でした。

サンデーの後塵を拝していいたマガジンは、1967年1月に100万部を突破し、1968年(昭和43)の新年増大号で120万部を発行します!

80万部ほどだったサンデーはついに、マガジンに部数で負けてしまったのです。

その後、マガジンは1991年に250万部、1998年に445万部の最高部数を記録しました。

2000年代に入ると400万部を割り、2010年には150万部、2019年現在は71万部です。

サンデーは1983年に最高部数の228万部を記録しました。

マガジンの445万部とは圧倒的な差です。

2000年に150万部、2010年には68万部まで落ち込み、2019年現在は27万部と、厳しい状況です。

ちなみに、「週刊少年ジャンプ」(集英社)は1995年にギネス記録の653万部を記録し、現在は169万部です。

週刊誌の休刊のデッドライン部数は、出版社による判断もあって難しいところです。

ただ、小学館の「週刊ヤングサンデー」は2008年に休刊となりましたが、その際に部数は20万部を割っていたといいます。

サンデーも分水嶺に立たされているのかもしれません。

秋田書店の「週刊少年チャンピオン」は、すでに20万部を割っていると言われています。

まとめ

・「天才バカボン」の移籍理由のひとつは赤塚不二夫さんのサンデーへの恩と愛着

・もう一つの理由は、サンデーの編集者・武居俊樹さんが赤塚不二夫さんに食い込んでいたこと

・マガジンとサンデーは同日に創刊し、以来、部数でしのぎをけずってきた

※ 引用・参考文献 文春文庫「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」武居俊樹