全世界で愛されている「ドラえもん」の作者である藤子・F・不二雄さん。
最後の弟子だった“むぎわらしんたろう”さんが著書「ドラえもん物語~藤子・F・不二雄先生の背中~」で、天才の性格や死因について書いています。
日本人なら誰もが知っていて、誰からも愛されている「ドラえもん」を生み出した藤子・F・不二雄さんがどんな人だったのか、紐解いていきます。
天才-藤子・F・不二雄は弟子の前でも偉ぶらない性格

むぎわらしんたろうさんが弟子になったのは、1988(昭和63)年4月、19歳の時です。
藤子・F・不二雄さんが54歳の時で、「ドラえもん」を描きはじめて20年ほど経っていました。
藤子不二雄の二人がコンビを解消したばかりで、藤子プロを立ち上げたばかりでした。
藤子プロは新宿にあり、F先生も川崎市の自宅から電車にのり、新宿駅からバスに乗って通っていました。
庶民的な一面もあったのです。
F先生は毎日11時に出勤し17時に退社するという、規則正しい生活を送っていました。
執筆をこの時間しかしいなかったというわけではありません。
家族との時間を大切にされるので夜には自宅に戻りますが、自宅の書斎でも執筆をしていました。
多忙な執筆生活の中、F先生は弟子に優しい方でした。
むぎわらしんたろうさんが自分で描いた漫画の原稿を、F先生に見てもらう機会がありました。
原稿を預かったF先生は数日後、むぎわらしんたろうさんを呼び、原稿を返します。
なんとその原稿のほとんどのページにぎっしりと、アドバイスが書き込まれていたのです。
さらに、原稿への書き込みとは別に、一枚の紙にアドバイスを書いてくれていたのです。
それだけでなく、弟子たちにF先生ご自身が集めていたLD(レーザーディスク)の映画を貸していたのです。
漫画家を目指すのなら、自分の好きな分野だけでなくいろいろな世界を見て勉強する必要がある、ということを伝えてくれたのです。
川崎の自宅からLD(直径30cmのディスクなので大きい!)をわざわざ持ってきてくれるのです。
また、F先生はむぎわらしんたろうさんを演劇に連れて行ってくれることもあったようです。
演劇を観る前に、ふたりで立ち食いそばを食べたそうです。
ここも庶民的で偉ぶらないF先生の人柄がわかるエピソードです。
天才-藤子・F・不二雄の死因
F先生の体に病魔が忍び寄ります。
むぎわらしんろうさんが藤子プロに入社する2年前の1986(昭和61)年には、胃潰瘍の手術を受けています。
F先生には胃潰瘍と伝えていましたが、本当は胃がんだったそうです。
手術から復帰して「ドラえもん」を描き続けますが、1994(平成6)年ごろから、職場にあまり出社してこなくなりました。
原稿の受け取りは病院や自宅で行っていました。
1996(平成8)年になると、むぎわらしんたろうさんに渡す原稿の下絵に、変化ができます。
これまでは下絵でもドラえもんやのび太などの主要キャラクターには、F先生がペン入れをしていました。
それがなくなって、主要キャラクターも下絵だけになっていたのです。
むぎわらしんたろうさんにペン入れを任せるようになったのです。
弟子であるアシスタントの方々がペン入れした原稿を自宅で受け取ったF先生は、藤子プロのスタッフ宛に手紙を送ります。
全文をここで紹介します。
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◎藤子プロスタッフの皆さんへ
〇毎日ごくろうさまです。今回は特に大変だったと思います。深く感謝しております。
〇感謝しながらこんな事を言うのは申し訳ないのですが、欲が出たと言いますか・・・。この機会に徹底的に僕の理想像を聞いてほしいと思うのです。
〇言いたい事はコピーへの書き込みをみれば解って貰えるでしょう。
〇欠点ばかり指摘した結果になりましたが、今後少しずつでも理想像に近づいていけばと思います。
〇総集篇、単行本化。二度の機会に、できる範囲で改訂してください。
〇漫画家がベテランになると絵やアイディア創りのコツが解ってきます。この時が一番の危険なのです。ついつい楽に仕事しようとする。こうなるとあっと言うまにマンネリの坂を転げ落ちることになります。
〇自戒の意味もこめて言うのですが、漫画は一作一作、初心にかえって苦しんだり悩んだりしながら書くものです。お互いガンバりましょう。
〇「藤子プロ作品は、藤子本人が書かなくなってからグッと質が上った」と言われたら嬉しいのですが
藤子・F・不二雄
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冒頭はスタッフへの感謝をするところに、人柄が表れています。
最後の一文は、死を予期していたのでしょう。
この文章は1996(平成8)年8月頃に書かれています。
そして亡くなられたのが同年9月23日、62歳の若さでした。
死因は肝硬変です。
F先生は9月20日に自宅の机に突っ伏して意識を失いました。
椅子に座って原稿を描きながら、鉛筆を握ったままでした。
娘さんが発見し、病院に搬送されて意識が戻ることなく、3日後に亡くなられたのです。
机の上には「ドラえもん」の下絵が残されていました。
意識を失う直前まで、生涯、漫画家だったのです。
【まとめ】
〇藤子・F・不二雄先生は電車とバスで通勤していた
〇多忙な中でも、弟子の描いた漫画を詳細にみてあげていた
〇死因は肝硬変。意識を失っても鉛筆を握っていた。机の上には「ドラえもん」の原稿が。