トキワ荘の漫画家

藤子・F・不二雄は天才で変人│漫画家としての特徴も

日本のみならず世界中で愛されている「ドラえもん」。

生みの親は藤子・F・不二雄さんこと藤本弘さんです。

1969年(昭和44)に小学館の学年誌で連載が開始され、アニメ化されたのは1973年(昭和48)。

藤本さんは1996年(平成8)に62歳の若さで亡くなられましたが、現在でも物語は続いています。

「ドラえもん」を描いた藤本弘さんは天才と言われていますが、変人的な側面もあると言われています。

漫画家としての特徴も、トキワ荘研究家の上原龍一が追っていきます。





藤子・F・不二雄さんはまぎれもない天才。漫画家としての特徴も

藤子・F・不二雄さんの代表作は「ドラえもん」以外に、「パーマン」「キテレツ大百科」「エスパー麻実」等があります。

どれもテレビアニメ化され、知らない人がいない程の作品です。

藤本さんの相方である藤子不二雄Aさんこと安孫子素雄さんも、藤本さんのことを「天才」と言っています。

安孫子素雄さんも「怪物くん」や「忍者ハットリくん」などの少年漫画で有名ですが、ブラックユーモアの「魔太郎がくる!」や「笑ゥせぇるすまん」といった大人向けの作品も描くようになります。

藤本さんの天才さは、年をとっても少年漫画を描き続けられたことです。

安孫子さんは30歳を過ぎたあたりから、子供向けの漫画が描きにくくなってきたと言っています。

安孫子さんの作品に「プロゴルファー猿」があります。

子ども向けの漫画ですが、安孫子さん自身がゴルフにはまり、その経験から題材としてゴルフを扱いました。

藤本さんは亡くなるまで「ドラえもん」を描き、子どもに夢を与え続けたのです。

執筆しながら倒れ、病院に運ばれました。

娘さんが発見した時は、「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」を執筆中で、鉛筆を握ったままだったといいます。

その仕事量も天才ぶりを表しています。

小学館の学年誌「小学一年生」から「小学六年生」までの6冊に、違う内容のドラえもんを20年間、毎月連載したのです。

また、ドラえもんの大長編は「コロコロコミック」に描いていました。

「パーマン」「エスパー麻実」「キテレツ大百科」も同時期に連載していたのです。

当然アシスタントはいますが、人間業ではありません。

藤本さんの活躍を間近で見ていた安孫子さんは、「自分は藤本氏のマネージャーになるしかない」と言っていたこともあるのです。

藤本さんは著書の中でこのように語っています。

「描くぼくが楽しみ、読んでくれる人も楽しむ、そんな漫画がずっとぼくの理想なんだ。」

生涯、子どもの気持ちをわかる漫画家として生きた実像がこの言葉に詰まっています。

藤子・F・不二雄さんには変人の側面もあります

藤本さんの特徴的なエピソードとして、お風呂の話があります。

人と一緒にお風呂に入らないのです。

藤子不二雄の二人や石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんが若いころに住んでいたトキワ荘は、風呂がありませんでした。

近くの銭湯にみんなで連れ立っていきますが、藤本さんだけは頑として一緒に行かなかったのです。

後に、安孫子さんと一緒に藤子スタジオを立ち上げて多くのアシスタントを養っていました。

温泉に社員旅行に行った際も、藤本さんは温泉に入らなかったのです。

人との距離感に、独特なものを持っていたのです。

藤本さんは高校卒業後、地元の富山県で製菓会社に就職します。

しかしたった3日ほどで退職してしまいます。

退職の理由として言われているのは2つです。

製菓会社の工場の仕事もあったので、けがをして漫画を描けなくなるのが嫌だった。

もう一つの理由は、何人もの人と一緒にいるのが耐えられない、ということです。

変人的なエピソードとして捉えられがちな話ではありますが、この決断力がなければ人気漫画家の藤子不二雄は生まれませんでした。

安孫子さんは高校卒業後、富山新聞社に入社しました。

2年間勤めましたが、漫画を描くのは藤本さんが中心に行い、安孫子さんは土曜日と日曜日を中心に手伝うかたちでした。

この2年間の間に、「四万年漂流」という作品を雑誌「冒険王」(秋田書店)に連載し、初の単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」も出すことができています。

プロ漫画家への道が見えてきましたが、安孫子さんは新聞社の仕事を辞めるつもりがありませんでした。

富山新聞社の専務が安孫子さんの叔父さんでしたし、給料もよく、同僚に恋もしていました。

そんな安孫子さんの人生を動かす提案をしたのは藤本さんです。

一緒に上京してプロ漫画家になろう、と話したのです。

昭和20年代当時、漫画家を目指すということは今の中学生や高校生がアイドルになる、AKB48に入る、YouTubernになると言うことより、突拍子もないことです。

漫画が市民権を得ていない時代でした。

全国各地のPTAや「日本子どもを守る会」「母の会連合会」といった方たちが、漫画の非難を組織立ってしていた時代なのです。

漫画を読むと馬鹿になるとも言われていました。

このような背景の中で20歳前後の若者が東京を目指すという決断は、並大抵のものではありません。

藤本さんの決断が、日本の漫画を世界中に知らしめる一歩にもなっているのです。

まとめ

・藤子・F・不二雄さんは生涯にわたって少年漫画を描き続けた

・ヒット作を同時に何本も連載し、安孫子素雄さんは藤本さんのマネージャーになるしかないと思っていたことも

・人との付き合いも独特で、人と風呂に入るのを毛嫌いする

・富山県から漫画家を目指して上京する決断をし、安孫子さんを誘ったのは藤本さん