トキワ荘の漫画家

藤子不二雄のふたりの友情│コンビ解消は年収や不仲が理由?作風と性格や関係についても

ドラえもん、オバケのQ太郎、パーマン、忍者ハットリくん、怪物くん…

日本人なら一度は観たことのあるアニメの原作を描いている漫画家は、藤子不二雄のふたりです。

藤子不二雄がふたりのコンビということは知っていても、その仲はどうだったのか?

なぜコンビを解消したのかという理由は、よくは知られてはいません。

「まんが道」をはじめ、藤子不二雄のふたりの生涯が書かれた本をすべて読んでいる上原龍一が、解き明かしていきます。





藤子不二雄のふたりの友情は小学生時代から

藤子不二雄のふたりの友情は小学校で出会ってから、藤子・F・不二雄さんが亡くなるまで続いていました。

とても良好な関係でした。

時に喧嘩をしたこともありますが、生涯良きライバルであり、同じ漫画家の仲間でしたし、親友以上でした。

藤子不二雄Aさんこと安孫子素雄さんは、富山県氷見市のお寺の子供でした。

住職であったお父さんが亡くなり、お寺から出て富山県高岡市に引っ越しました。

転向した小学校で出会ったのが、同じクラスにいた藤子・F・不二雄さんこと藤本弘さんです。

ふたりが親友となるのに、時間は必要ありませんでした。

我孫子さんも藤本さんもあまり運動が出来なく、我孫子さんはチビで藤本さんはのっぽ。

ともに父親が亡くなっている・・・

クラスで目立つ存在ではありませんでしたが、共通の特技と趣味がありました。

絵が上手で、漫画が好きということです。

ふたりは手塚治虫さんの漫画「新宝島」と出会います。

それまでの漫画は、あまり動きのないものでしたが、手塚治虫さんはまるで映画を見ているかのようなコマ割りで漫画を描きました。

「新宝島」に出会い、ふたりは本格的に漫画を目指すようになります。

ふたりで一緒に「少太陽」という雑誌を、手作りで描きました。

「少太陽」は漫画や読み物、それに広告も描いてあり、まるで本当に書店で売っている雑誌のようです。

「少太陽」はこの世に二冊しかありません。

安孫子さんと藤本さん、それぞれが持っています。

藤本さんが生前、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に出演した際、この本に値付けがされました。

なんと1200万円もの値がついたのです!

ふたりは「漫画少年」という雑誌の投稿欄に、一緒に漫画を投稿していました。

入賞することもしばしばで、その実力はとても高かったのです。

実際、ふたりは高校生の時に「天使の玉ちゃん」という四コマ漫画を、毎日小学生新聞の大阪版で連載してしまうのです。

しかも連載のきっかけがすごいです!

藤子不二雄のふたりが連載する前は、「マァチャンの日記帳」という四コマ漫画を、手塚治虫さんが連載していたのです。

手塚治虫先生の連載が終わったことを知ったふたりは、次は自分たちの番だ! と、なんのコネも、これまでに連載の実績もないのに、新聞社に四コマ漫画を送ったのです!

毎日小学生新聞に漫画を送って特に音沙汰もなかったのですが、いきなり書留が毎日小学生新聞から送られてきました。

新聞販売店に行って新聞を買ってみると、実際に自分たちが送っていた漫画が掲載されていてびっくりしたのです。

高校卒業後は、ふたりとも就職しました。

安孫子さんは富山新聞社に入社しました。

我孫子さんの叔父さんが専務を務めていたのです。

我孫子さんは仕事がとても好きでした。

特技の漫画を活かすことのできる仕事だったからです。

当時の新聞には風刺画が掲載されていました。

日本の政治家や外国の首相、文化人などの著名な人を似顔絵で書くということが多かったのです。

配属が学芸部だったことから、大好きな映画の批評も書くことができ、とても楽しんでいたのです。

反面、藤本さんは就職した製菓会社をわずか3日で退職しました。

製菓会社の工場勤務だったことから、事故によって手を怪我し、漫画を描けなくなることを恐れたのです。

安孫子さんは毎日働き、藤本さんは家で漫画を描くことが中心、という生活となりました。

就職してから2年、藤本さんが安孫子さんに提案をします。

東京に行ってプロの漫画家を目指そう、ということです。

藤本さんの決意に、我孫子さんはかなり悩みました。

安孫子さんはお母さんに相談しましたが、好きなことをすればいい、と言われプロの漫画家になることを決意します。

藤子不二雄のコンビ解消は不仲ではありません

コンビを解消したのは53歳の時です。

大人になってからもずっと、ふたりの仲は良かったのです。

ふたりが上京して住んだのは東京の両国の近くにある、安孫子さんの親戚の家です。

ふたりは同じ部屋で暮らしましたが、たった二畳しかありませんでした。

本当に畳が2枚分の部屋の大きさです。

細長い机を二畳の部屋に置き、漫画を描きました。

寝るときは机を廊下に出して、布団をふたり分しいて寝ましたが、藤本さんは背が大きいので壁に足がぶつかってしまい、体を曲げて寝ていたようです。

二畳の部屋での生活を5ヶ月続けた後、ふたりはトキワ荘に移ることになります。

トキワ荘には手塚治虫さんと寺田ヒロオさんが住んでいました。

ただ手塚治虫さんはその時長者番付に載るような人です。

家賃3000円のアパートからは出ることにしました。

手塚治虫さんが住んでいた部屋に藤子不二雄のふたりは移ることになりました。

しかし、敷金が3万円かかり(いまでいう30万円以上)、そんなお金はありませんでした。

手塚さんが敷金をそのまま置いていってくれ、二畳の部屋を脱出できたのです。

そうはいっても、トキワ層も四畳半です。

普通、男同士が狭い部屋に一緒に住んでいたら仲が悪くなると思いますが、そうではありませんでした。

トキワ荘に住んで数年後にはしっかり稼げるようになり部屋を二部屋借りて別々に済みましたが、漫画の仕事はもちろん、一緒に映画撮影などもしました。

藤子不二雄のコンビ解消は年収も関係しています

ふたりは実質、20代の時から別々に漫画を描くことが増えてきました。

それでも印税は二等分していました。

ふたりの名義での最大のヒットは、「オバケのQ太郎」です。

アニメ化もされ、「オバQ音頭」のレコードは200万枚を超えるダブルミリオンとなり、一大ブームを巻き起こしました。

お金がコンビ解消にかかわってくるのは、「ドラえもん」です。

「ドラえもん」は藤本さんが一人で描いていましたが、「オバケのQ太郎」をはるかにしのぐ、世界的ヒットとなりました。

藤本さんとしては、ドラえもんの印税もふたりで分ければいいと思っていましたが、藤本さんは病気により考えを変えます。

胃がんになり、自身の死を身近に感じたのです

藤本さんが亡くなった後、ふたりの遺族や関係者の間で、印税の問題が起こることを恐れたのです。

ふたりの仲は変わりありませんが、先を見据えてコンビを解消したのです。

本当は仲が悪くて、お金でもめたのではないか? と言われることもありますが、藤本さんはコンビ解散後も、旅行に行くたびに我孫子さんにお土産を買っていたというエピソードもあります。

我孫子さんは変な物のコレクション、「変コレクション」が趣味なので、藤本さんもそれに協力していたのです。

ふたりが家族と住んでいる一軒家も、徒歩数十メートルという位置関係です。

ふたりの中がずっと良好だったというのは、藤本さんが亡くなった時のエピソードからも見えてきます。

藤本さんが亡くなったのを聞いた我孫子さんは、足がガクガクと震え立ってられなかった、と後に語っています。

まるで自分を失ったかのような衝撃だったのでしょう。

藤子不二雄ふたりのそれぞれの作風と性格

ふたりの仲は永遠でしたが、いつもベタベタで一緒なわけではありませんでした。

社交的でない藤本さんは一人でいたりすることも多いですが、我孫子さんはトキワ荘の仲間としょっちゅう出かけたり、いろんなとこに飲みに行ったりもしました。

安孫子さんはテレビにレギュラー出演して芸能人との付き合いもあり、ゴルフも楽しんでいました。

ふたりの性格の違いは、作風にも表れてきました。

コンビ解消の理由は色々言われていますが、作風のあきらかな違いも理由が一つでしょう。

藤本さんはドラえもんに代表されるような児童向けの漫画を生涯、描き続けました。

子供の心をずっと持ち続けたのです。

安孫子さんは大人向けの漫画や、子供向けでもブラックユーモアを描いています。

「笑ゥせぇるすまん」や「魔太郎がくる」がいい例でしょう。

こういった作風の違いが出てきたにもかかわらず同じ名前でやっていると、読者が漫画家の名前から抱くイメージにずれがでてきてしまいます。

実際に一緒に漫画を書いてないのであれば解散しよう、となるのは自然の流れでしょう。

まとめ

・藤子不二雄ふたりの友情は小学生時代から

・大人になってもふたりで一緒に住んでいた

・コンビ解消の理由は「ドラえもん」と藤本さんの病気

・コンビを解消しても不仲ではなかった