トキワ荘の漫画家

手塚治虫はアニメ会社の就職試験に落ちていた

漫画の神様の手塚治虫さん。

アニメの神様でもありました。

だれもが無理だといっていた、

日本初だけでなく、

世界初の毎週1回30分の連続放映アニメ

「鉄腕アトム」をつくったのです。

手塚治虫さんは、第二次世界大戦中も映画館に通い、

アニメをむさぼるようにみていました。

「ボクのまんが記」(朝日新聞出版)に

当時のことが書かれています。





「まんが映画は、ぼくにとって命と家族のつぎに

だいじなものです」

漫画を描くことより想いが強かったのかもしれません。

「小さいときから、おとなになったらまんが映画を

作ろうと思いつめたすえ、

シラミにひと晩じゅう食われたこともあります。」

手塚治虫さんは、実行にうつします。

「戦争がおわって二年ほどしてから、

ボクは東京へでて芦田まんが映画スタジオ

というところへ、テストを受けにいきました。」

就職試験には落ちてしまいました。

戦後二年と書かれていますが、

単行本デビュー作「新宝島」は

1947(昭和22)年1月30日発行です。

まさに戦後2年です。

こうも書かれています。

「もし、そのときパスしていたら、

ぼくは医学もやめていたし、まんがもかいて

いなかったでしょう。

こつこつと地味に、動画家のひとりとして

働いていたかもしれません。」

手塚治虫さんの仕事量から考えると、

医者の道も、漫画もアニメも、

すべてこなしていたことでしょう。

手塚治虫さんが試験に落ちてしまった

「芦田まんが映画スタジオ」ですが、

手塚治虫さんがすでに漫画家として

デビューしていたことから、

「きみ、まんが映画にはむかないよ」と、

採用しなかったようです。

東京でのデビューといえる「ジャングル大帝」の

連載が「漫画少年」(学童社)ではじまったのが、

1950(昭和25)年です。

就職試験に通っていたら、日本の漫画の歴史も、

大きく変わっていたでしょう。

漫画少年の学童社が倒産したときのトキワ荘の漫画家たち 赤塚不二夫 寺田ヒロオ 石ノ森章太郎 手塚治虫「漫画少年」の投稿欄から、おおくの漫画家が生まれました。 藤子不二雄のふたり、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、 そして新漫画党の党...
手塚治虫の人柄ートキワ荘・石ノ森章太郎・キン肉マンについて手塚治虫さんの「新宝島」(育英出版)によって漫画家を目指した人は数多います。 よく知られていますが、「ドラえもん」の藤子・F・不二...
手塚治虫が語る「作家の功績」-編集者と雑誌への二つの想い手塚治虫さんと編集者の関係性は、これまで多くの本で語られています。 原稿がなかなか進まず、手塚プロの壁を殴って穴を開けた。 ...





COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。