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トキワ荘メンバーに有名漫画家が多い理由│四畳半の家賃と間取りを現代と比較

藤子不二雄Aさんの自伝的漫画で、漫画家のバイブルともいわれている「まんが道」で有名になったトキワ荘。

もしトキワ荘がなかったら、現在に日本漫画の隆盛は無かったといっても過言ではありません。

トキワ荘からなぜ有名漫画家が多く輩出されたのか?

四畳半の一間のアパートの家賃や間取りは、現代でいえばどのクラスなのか?

トキワ荘関連の書籍をすべて研究している上原龍一が解説します。





トキワ荘のメンバー

トキワ荘に住んでいた漫画家メンバーは12名います。

「手塚治虫」1953初頭~1954/10

「寺田ヒロオ」1953/12/31~1957/6/20

「藤子・F・不二雄」1954/10/30~1961/10

「藤子不二雄A」1954/10/30~1961/10

「鈴木伸一」1955/9/2~1956/6/1

「森安なおや」1956/2~1956末

「石ノ森章太郎」1956/5/4~1961末

「赤塚不二夫」1956/5/4~1961/10

「よこたとくお」1958~1961

「水野英子」1958/3~1958/10

「山内ジョージ」1960/9~1962/3

「向さすけ」1981~1982

はじめに手塚治虫さんが入居しました。

トキワ荘を手塚さんに紹介したのは「漫画少年」という雑誌を発行していた学童社の編集長、加藤宏泰さんです。

手塚さんは実家の宝塚の家で漫画を描いていましたが、東京の拠点としてトキワ荘に約2年、入居していたのです。

二番目の入居者の寺田ヒロオさんも、加藤編集長に紹介され、新潟から上京してトキワ荘に住みました。

藤子不二雄の二人は富山から上京し、はじめは藤子不二雄Aさんの親戚の家に住んでいました。

親戚の家は両国の近くで主な出版社から遠かったことや、二畳の部屋に二人で住むという狭さから、やはり加藤編集長の紹介でトキワ荘に引っ越したのです。

藤子不二雄の二人が入居した部屋は、手塚治虫さんが出て行ったあとの同じ部屋でした。

当時、「漫画少年」で連載を持っていた寺田ヒロオと名前が売れ始めていた藤子不二雄が同じアパートに住むということで、漫画家仲間の研究会などをつくり、仲間が集まってきたのです。

トキワ荘に有名漫画家が多い理由

トキワ荘のリーダーは寺田ヒロオさんです。

当時の若者は友人のことを「さん」や「くん」ではなく「氏」とよんでいました。

赤塚不二夫さんが年上の藤子不二雄Aさん(本名・安孫子素雄)さんのことをよぶときは「安孫子氏」、です。

安孫子さんが赤塚さんをよぶときも「赤塚氏」です。

ただひとり、「氏」ではなく「さん」でよばれていたのが、寺田ヒロオさんです。

「テラさん」とよばれていました。

つまり、同じ漫画家仲間でありながら、兄貴分として慕われていた存在だったのです。

寺田さんが総裁となって結党した「新漫画党」は、メンバー全員の合意がなければ、新メンバーをいれることができませんでした。

漫画の実力、漫画に対する姿勢、そして人柄を兼ね備えたメンバーしか入党できなかったのです。

そしてその選ばれたメンバーがトキワ荘に入居したのですから、漫画家として成功する確率は高いでしょう。

新漫画党のメンバーは以下の12名ですが、トキワ荘に入居していたのは★印の8名です。

つのだじろうさんは新宿に実家があったので入居こそしていませんが、毎日のようにスクーターでトキワ荘に通っていたのです。

寺田ヒロオ★

藤子不二雄A(安孫子素雄)★

藤子・F・不二雄(藤本弘)★

坂本三郎

森安なおや★

永田竹丸

鈴木伸一★

森安なおや(後に除名となる)★

つのだじろう

石森章太郎★

赤塚不二夫★

園山俊二

才能のある者がトキワ荘に集まったからといって、簡単に成功できるわけではありません。

「天才バカボン」や「おそ松くん」を描いたギャグマンガの天才といわれる赤塚不二夫さんでさえ、筆を折ろうとしたことは何度もありました。

赤塚不二夫さんは当時、少女漫画を描いていました。

ギャクマンガというジャンルがそもそも確立されていませんでした。

トキワ荘に入居してからしばらく、石ノ森章太郎さんのアシスタントのような立場になってしまいました。

たまに出版社から依頼があったとしても描きたくない少女漫画・・・

ついにお金もなくなってしまい、藤子不二雄Aさんに「漫画家をやめてキャバレーのボーイになる」と相談します。

藤子不二雄Aさんは「テラさんに相談したら」といいます。

テラさんは、四万円を赤塚さんに貸します。

家賃を払っても、半年間は暮らせる金額です。

そしてこの半年の間に、赤塚さんはギャグマンガの連載を持つことができ、ブレイクしていったのです!

テラさんがトキワ荘の「兄貴」として果たした功績はまだあります。

藤子不二雄の二人が連載や読み切りを何本も抱えていた際、息抜きに故郷の富山県に戻りました。

まだ20代そこそこの若者です。

実家に戻っても仕事をしようという算段でしたが、まったく原稿に手がつかなくなってしまい、ほとんどの連載を落としてしまったのです。

各出版社の編集者から総スカンをくらい(当然ですが)、悪評が出版業界に広がってしまいました。

ふたりは富山から戻ることなく、無為に日々を過ごしていました。

そこにテラさんからの手紙が届きます。

まずは戻ってきて話をしよう、という内容です。

トキワ荘にもどった藤子不二雄の二人は、テラさんに漫画家を辞めることを伝えます。

そこでテラさんは烈火のごとく怒りました

そんなに簡単に漫画を諦められるのか!

誠心誠意、編集者に謝罪をし、漫画を続けろ!

という内容です。

テラさんの叱咤激励されたことにより、藤子不二雄はなんとか漫画の世界に残ることができたのです。

テラさんがいなければ「ドラえもん」も「忍者ハットリくん」も「パーマン」も、名作は生まれなかったのです。

四畳半の家賃と間取りは現代でいうとどれぐらいなのか

手塚治虫さんがトキワ荘に入居した1953年(昭和28年)は、漫画はまだ世の中に認められてないものでした。

むしろ、漫画を読むと馬鹿になると言われているような時代です。

悪書追放運動といって、漫画が燃やされたのが数年前にあったぐらいです。

漫画家になろうと考えるのは、今の高校生や中学生がユーチューバーになろう、というより突拍子もないことでした。

では実際にどれぐらい稼げていたのかというと、1954年の長者番付に手塚治虫さんが載りました。

関西の長者番付の画家の一位が横山大観、二位が手塚治虫さんで年収は217万円でした。

当時は、百万長者という言葉がありました。

大卒サラリーマンの初任給が13,000円です。

トキワ荘の家賃は3,000円でした。

手塚さんにとっては安い額ですが、四畳半一間とはいえ、サラリーマンにとっては安くはない家賃でした。

トキワ荘の場所は、今の住所でいうと「東京都豊島区南長崎三丁目16番6号」です。

目白駅から2km圏内にあり、西武池袋線の池袋駅から一駅目の椎名町駅、二駅目の東長崎駅の両駅から徒歩10分ほどの好立地にあります。

藤子不二雄の二人がトキワ荘に入居しようとした際、家賃はなんとか払える額でした。

しかし、敷金が30,000円必要で、とても手がでませんでした。

そこに手を差し伸べたのが手塚治虫さんです。

藤子不二雄の二人は手塚治虫さんが住んでいた部屋に入ることを検討していました。

手塚治虫さんはなんと、30,000円の敷金をそのまま置いておくよ、だからあなたたちは敷金を払わなくていいよ、という風に手を差し伸べてくれたのです。

藤子不二雄の二人は手塚治虫さんの好意によってトキワ荘に住むことができたのです。

ただ二人もある程度稼げるようになると、もう一部屋借りて隣り合って住んでいました。

トキワ荘は風呂もなく、共同トイレということで、安いアパートというイメージがありますが、当時としてはそれが当たり前でした。

実際にトキワ荘は手塚治虫さんが入居する一年前に建てられた新築のアパートだったのです。

漫画家も貧乏ではありませんでした。

連載一本を描けば、5,000円は原稿料としてもらえたのです。

寺田ヒロオさん、藤子不二雄の二人、石ノ森章太郎さんは連載を何本も抱えていました。

それでも貧乏のイメージがあるのは、知識に投資をしていたからです。

テレビが高価の普及率が30%もない時代に、藤子不二雄の二人や石ノ森章太郎さんは購入して持っていたのです。

藤子不二雄さんはその他にも、個人で持つ人はほとんどいない8ミリ映画が撮影できるカメラも購入しています。

23,500円の代物でした!

大卒初任給の2倍近い額です!

トキワ荘の名物として、キャベツ炒めやキャベツの味噌汁、ソーダに焼酎を入れて飲む「チューダー」(テラさん考案)が有名なので、貧乏というイメージがついてしまっているのでしょう。

まとめ

・トキワ荘に住んだ漫画家は12名

・有名漫画家が多いのは、テラさんの存在が大きい

・トキワ荘の家賃は3,000円

・当時の大卒初任給は約13,000円

・トキワ荘メンバーは知識にお金を使っていた